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【アラベスク】  第11章 彼岸の空



第2節 夕闇の十字路 [16]




「えぇ、魁流くんの事を涼木(すずき)先輩と呼んでいたから、たぶん魁流くんの後輩ね。二人の会話の中に鈴ちゃんの名前が出てきたから、あるいは彼女なら何か知っているかもしれないけれど」
 別に二人の会話を立ち聞きするつもりはなかったのよ。と付け足す安績の言い訳など右から左に聞き流し、ツバサは相手の小さな身体に圧し掛かりそうなほど身を屈める。
「その小窪って人、今どこに居るんです?」
「あ、それがね、その人もどこに居るのか」
 申し訳なさそうに眉尻を下げる安績の言葉。ツバサは悪いとは思いながらも大きなため息をついてしまった。落胆の態度を隠しもしないツバサに気を悪くするでもなく、安績は宥めるように腕を摩る。
「でもね、確かその小窪さんって人、唐渓の理事長と何か関係があると言っていたの。学校で先生方にでも聞いてみたら何かわかるんじゃないかしら。それに唐渓の卒業生だと思うから、学校で調べてみればわかるかも」
 理事長―― かぁ
 その言葉にうんざりする。
 なんとなく胡散臭い権力の臭いがするなぁ。
「そう言えば、二回目に来られた時には、一緒に霞流(かすばた)という男子生徒もいたわね。こちらはどのような子だったのか、さっぱりわからないけれど」
 霞流? うーん、どこかで聞いたことのある名前のような気もするけれど。でも今の話だと、気になるのは小窪智論って人よね。
 顎に指を当て上目使いで唇を尖らせるツバサ。そんな彼女を背後から呼ぶ声。
「ツバサ、みーけっ!」
 場の雰囲気なんて読みもできない子供が一人、必死でこちらに駆けてくる。
「こんなところで何やってるの? あれ、安績さんもいる」
 クリクリとした目を見開き、キョトンと首を傾げる少年へ向かって、安績がニッコリと目尻に皺を寄せる。
「あら、よくここがわかったわね」
「うん。だって僕、家中探したんだ。でもいないから、絶対庭だって思ったんだよ」
 言いながら、片手をツバサへ突き出す。
「クッキー焼けたよ。ツバサも食べにおいでよ」
 小さな掌から上がるのは、なんとも香ばしく甘い香り。少し焼き過ぎかとも思える一枚のクッキーに、途端にツバサの腹が鳴る。
 慌てて抑えて横を見ると、安績さんがクスッと笑みを零す。その顔はまるで悪戯好きの少女のようで、なんとも可愛らしくて怒る気も失せる。
 うー 我慢できない。
 立ち上る香りに降参し、ツバサもニッコリ笑ってみせる。
「おぉ 美味しそうじゃん」
 言いながら手を伸ばす。だが
「ダメ」
 少年はクッキーを握った手を引っ込め
「はい あーん」
「えぇ?」
 戸惑いながらも仕方なく あーん。
 パクっ
 うん 美味しい。ん? 美味しい?
 途端に口の中に広がる―――
「うわっ!」
 行儀が悪いと思いながらも、ツバサは思わず口から吐き出す。両手でクッキーの欠片を受け取り、剣呑に眉をしかめる。
 両手を叩くのは小さな少年。ツバサを指さしゲラゲラと笑う。
「ちょっと、何これっ」
「何って、これはツバサが作ったヤツじゃん。砂糖と間違えて塩入れたヤツ」
「あれは捨ててって言ったじゃないっ なんであんな生地で作るのよっ!」
「だってツバサ、いつも言ってるじゃん。食べ物は粗末にしたらダメだよって」
「食べれない物はいいの。こんなの食べたら身体壊すって」
「大丈夫だよ。ツバサなら塩入りクッキーくらいじゃお腹壊したりしないって、まっちゃんが言ってたし」
「まっちゃんがっ?」
 右手を握って建物を見つめる。
「あのバカっ! 許さんっ」
 そう怒鳴ると同時に駆け出すツバサ。その後をおもしろそうに付いていく少年。
 まるで嵐のように去っていく二人の背中に、安績が品良く声をあげる。そうして気の済むまで笑った後、ふと(かたわ)らの蔓草へ視線を落した。
「鈴ちゃんと、シロちゃんが――― そう、そうだったの」
 そっと蔓を指に絡ませる。
「鈴ちゃんが、引き寄せたのかしらね」
 安績の痩せた指では、蔓にはまったく太刀打ちできない。
「やっぱりみんな、どこかで繋がっているのかしら?」
 だとしたら、私もどこかであの人と―――
 途端、醜い自分に眉を潜める安績。

「一緒に霞流という男子生徒もいたわね。こちらはどのような子だったのか、さっぱりわからないけれど」

 本当に嫌な私。いくつになっても私は醜いのね。
 自虐しながら、それでも霞流という手掛かりをそれ以上ツバサへ伝える事が、安積にはできない。
 高級住宅街の広がる富丘(とみおか)界隈(かいわい)。その丘の上に、霞流という表札を掲げた屋敷が存在するのを、安績は知っている。だが安績は、その情報をツバサへ伝えるつもりはない。
 ごめんなさいね、ツバサちゃん。私には、もうこれ以上あの名前を口にする勇気はないのよ。
 心内で謝り、そっと蔓から指を離す。
 見事に絡まりあった蔓草たち。
 本当に、見事なくらいに絡まりあっている。ならば自分もどこかで―――
 安績は、そんな自分に頭を振る。
「そんなワケないわね」
 自分はなんて、往生際が悪いのかしら。
 そう自嘲し、ブロック塀に背を向けた。辺りはすでに、濃い夕闇に包まれようとしている。





 美鶴は改札を通り抜け、そうして立ち止まった。今日は日曜日。仕事帰りや学校帰りの人々で賑わう事はない。改札の先で止まっても、咎める存在はいない。
 私って、行動範囲が狭いな。
 霞流邸を出た後、戻りたくはないと思いながらも結局は自宅近くの駅へ戻ってきてしまった。こういう時、普通の女子高校生ならば転がり込める友人宅の一軒でもありそうなものだが、残念な事に美鶴はあまり普通の女子高校生ではない。







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